【寄稿記事】[表裏比興の者]真田昌幸

すいません、私管理人は
表裏比興の者を
(ひょうりひこうのもの)と読んでました。
言うまでも無く、原哲夫先生のせいです

「秘孔」に慣れ親しんで育ってしまったからです。
でっていう君の記事
↓
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どうもでっていうだっていうwwwww


さて、剣閃も残りあと少しだっていう


でっていうは憧れの宝蔵院タンを絶賛強化中だっていう

案外今回はおにぎりを消化しなくてもとれそうな感じがするっていう。


あとは意外とSRの真田昌幸のイラストがツボにはまったっていう・・・・・・。

あっ、そうだ(唐突)

初心者さんはクエストで戦場制覇するとSR券が貰えるっていう

でっていうは最近知ったっていう。

・・・・・・でっていうは貰ってたかな・・・・・・記憶にないっていう・・・・・・
○戦国豆知識 やっぱり真田くんの知略を・・・・・・最強やな!真田昌幸
どうも筆者です。

今回は剣閃の助っ人から、真田昌幸さんのご紹介。
いやー、このイラストいいですね!
筆者はビビっときたゾ!
・・・・・・まあ、史実ではもちろん男ですが。
昌幸さんが生まれたのは1547年の長野県。
当時は信濃国と呼ばれていたところです。
昌幸が生まれた当初は、兄の真田信綱(のぶつな)が真田家の領主でした。
当時信綱は武田信玄に仕えていました。
そして弟の真田昌輝(まさてる)と共に各地を転戦していました。
ちなみに信綱さんは武田二十神将に選ばれるほど腕がよかったようです。
さすが真田家!
昌幸はというと、武田家に人質となっていました。

「こいつ……できる!」
信玄は昌幸の才能を見抜いていたようです。
そのため信玄の親戚に養子として迎え入れられました。
その後は信玄の側に仕えていました。
23歳の頃には第四次川中島の戦いで初手柄!
信玄は

「俺の両目のような奴だ」と誉めます。
その後武田信玄が病死。
武田家の領主は武田勝頼になります。
その後何が起こったかは炎舞ユーザーにとっては常識。
長篠の戦いで昌幸のお兄さんは二人そろって討ち死にします。

「アイエエエエエエエエ」
そして勝頼も自殺。
甲斐源氏の名門、ここに滅びたり・・・・・・。
上のお兄さん二人が死んでしまったのですから、
自動的に家督は昌幸のところへ。
昌幸は領主となりました。
そこで困ったのは主君探し。
真田家は当時大きな勢力を持っていたわけではないのです。
と、なると・・・・・・やはりどこかの大きな勢力を主君に持つよりほかに仕方がないわけです。

昌幸が主君に選んだのは織田信長でした。
信長は昌幸に駿馬を送り、滝川益一の配下につかせました。
これで一安心・・・・・・と思いきや・・・・・・。

ここで「本能寺の変」が発生!
ノブナガサン、オタッシャデー!
信濃も大混乱になります。
上杉、後北条、徳川がどさくさ紛れに領土を広げようと信濃に攻めいってきました。
肝心の滝川はさっさと本拠地へトンズラ。
昌幸は放置です。
あー、もう適当に舞でも舞って、終わりでいいんじゃない?
と、筆者なら諦めてしまうところですが、そこは昌幸。
まず北条に従属します。
↓
北条を裏切ります。
↓
徳川につきます。
↓
徳川から信濃の領土を寄越せと無茶ぶり
↓
昌幸おこ
↓
上杉につく
↓
上杉から土地貰う
と、まるでFXのデイトレーダーのごとくポジションを変えてゆき、真田の土地を守ったのです。
このときの君主転がしをみて、豊臣秀吉はこう言ったそうです。
「表裏比興※(ひょうりひきょう)の者」

炎舞ユーザーにはおなじみのスキルの元ネタですね。
この頃に炎舞ユーザーなら誰もがご存じ、あの城を作ったのである。
それが上田城。
その後昌幸はこの上田城で2回も徳川軍を追い返すことになります。
第一回戦は昌幸が上杉に土地を貰った直後のこと。
激おこの徳川家康が攻めてきました。
「第一次上田城の戦い」
ですね。
徳川軍は7000
対する
真田軍は3000
戦の内容はこんな感じ。

真田昌幸の計略! 徳川軍を城下に誘い込んだ!

徳川家康の攻撃! 徳川軍は上田城に突入!

真田昌幸の計略! 鉄砲乱撃! 家康軍大混乱!
さらに真田伸幸の増援! 大ダメージ!

徳川家康 一時撤退!

徳川家康は様子をうかがっている!

徳川軍の石川数正が裏切った!

徳川軍は撤退した!
こうして徳川軍は1300人余りの犠牲者を出して上田城から撤退したのです。
その後、昌幸は長男の真田伸幸を徳川家康に仕官させた。と、同時に真田幸村を秀吉に仕官させました。
昌幸はどちらが天下をとっても真田の家を守るべく暗躍していたんです。
その後も色々合戦なり領地の入れ替えなど合ったがここでは割愛する。
とりあえず真田の領土は守られ続けていたのです。

「アバーッ!?」
その後秀吉が死ぬことになります。
天下はまたきな臭くなってきました。
家康が上杉軍を倒すため挙兵。
しばらくして石田三成も挙兵。
家康は直ちに軍隊を反転させて三成の迎撃に向かいます。
家康は諸大名と東海道を行くことに。
徳川秀忠(とくがわひでただ)は主力30000を率いて中山道をいくことになりました。
秀忠の主力30000は真田の領地近くを通ることとなる。
昌幸は陣を張りました。
その陣に石田三成からのメッセージがとどきます。
「こっちについてくんない?」
と、いうものでした。
そこで昌幸、幸村、伸幸の父子で話し合いがもたれます。
結局昌幸と幸村は豊臣につくことになりました。
伸幸は嫁さんが家康の重臣本田忠勝の娘だったため、
家康につくことにしました。
これはその話し合いがもたれた地名から、
「犬伏の別れ(いぬぶしのわかれ)」
と、呼ばれています。
その後徳川秀忠は

「せっかくだし、関ヶ原いくついでに真田の城落とすべ」
と、いうノリで上田城に攻め込んできた。
秀忠は降伏するようにうながした。
すると意外なことに昌幸は

「あーいいっすねぇ」
と同意。

「じゃけん、責任とるためにつるっぱげにしないといけないんで、ちょっと時間貰いましょうねー」
などと降伏前提で話をすすめた。
だが、いつまでたっても真田軍が降伏する気配はない。
おこな秀忠がまた使者を送ると昌幸はこう返した。

「あー時間貰ったお陰で戦の準備は万全だわー。いつかかってきてもイイゾ」
筆者は徳川方についていた真田伸幸は、
「やっぱりな」
と、笑っていたと思う。
そんな感じでグダグダだった交渉は打ち切りとなる。
「第二次上田城の戦い」が始まる。

・真田昌幸の攻撃! 門外に打ってでた!

・徳川秀忠の攻撃! 真田軍は城内に撤退!
さらに徳川秀忠の追撃! 城門を破って城内に追撃!

・真田昌幸の計略! 鉄砲乱撃!秀忠に大ダメージ!
(略) 8日後・・・・・・。

・秀忠は上田城攻略を諦めた!
・秀忠は撤退!
その後、関ヶ原の戦いが終わる。
豊臣についた昌幸と幸村は山の中で引きこもり生活をすることになってしまった。
昌幸はその後病気になってしまう。
息子の幸村に看取られつつ、九度山でこの世を去る。
享年65歳。
もう一度くらい、徳川と戦いたかったのではなかろうか。その後、息子の幸村は大阪夏の陣で徳川と3度目の戦いをすることになる・・・・・・。
※表裏比興とは誉め言葉ではない。理にあわないことをする奴、いやな奴というニュアンスの言葉である。確かに筆者も使われたら嫌なスキルだ・・・・・・。
参考
武将の決断
日本史1000人上巻
真田昌幸
真田昌幸?死してなお徳川家康を恐れさせた真田幸村の「最強の父親」
【表裏比興】真田昌幸のすべてをまとめる!
戦国武将列伝Ω

今回は大好きな真田ネタで熱くなりすぎたっていう。

毎回雑学ネタとか色々考えてるけど果たして需要あるんかなー?
必要ないなら投稿やめるっていう(予想以上に手間がかかってしまったっていう)……。

それでは、さよなら、さよなら、さよなら。

炎舞運営は史実やストーリー的なところが弱い。
剣閃も出てくる武将は寄せ集めで適当ですからね。
せっかく歴史ゲームやってますから
詳しくなりたいんですが。
ゲーム内でその機会はほとんどありませんね。
ちなみに筆者さんは「でっていう」って名前だったのか(初耳)
ならこのAAは「ヨッシー」なの?
確かにマリオであの恐竜に乗ると「でっていうー」って効果音が鳴るな。
違ってたらすいません。